「自分事」の視点:「私たち」のいない場所から

この数年、「自分事(じぶんごと)」という言葉を耳にする機会が多くなりました。

意味としては概ね「我が事」と同じだと理解してよいらしいのですが、元はもっぱらビジネス関連で使われていたものが徐々に広がってきた模様。
例えばある企業において、社員ないし従業員の一人一人がその企業のビジョンやブランドを意識していかなければならない……というような時に「仕事を自分事化する」などと言うようです。「自分に割り振られた作業だけをこなして、それ以外は他人事」ではいけない、ということでしょう。『実用日本語表現辞典』(http://www.practical-japanese.com/)には「他人事(ひとごと)をもじった言い方で、「他人事ではない事柄」「まさに自分に関係ある事柄」といった意味で用いられることのある言い回し。」とあります。

こうした心がけ自体が悪いものだとは思いません。むしろ、自ら何ごとかを積極的に引き受けようとする態度だとすれば、それは好ましいものでもあるでしょう。しかし他方、私は何処かでこの言葉に引っ掛かりを感じています。
単に耳慣れないものに違和感を覚え、保守的な言語観から否定したがっているのかと思いもしたのですが、どうも違う。もっと根本的なところで、相容れない感覚がある。

その理由は恐らく、次のようなものです。
この言葉には「自分事でないことは他人事である」という前提が滲み出ている。
その意味では、何かを「他人事」とする感覚そのものは問題としていないのです。「それは他人事ではなく自分事ですよ」と言うだけで、「他人事ならどうでもいい」(ここまで露骨な言い方はしないのでしょうが)という意識自体は肯定している。というよりもむしろ、そんなことは当然だと考えているようにすら見える。

「自分のことは自分でしなさい」。これは恐らく、幼少期から多くの人々が聞く言葉でしょう。これもやはり、それ自体が悪いものだとは思いません。しかしこの考え方を突き詰めていくと、「自分のこと以外は誰かがやる」、それは「誰か他人の自分事」という思考に行き着くのではないでしょうか。そしてそうした思考形式が広がり、固定化し自明と見なされたところに「自分事」という言葉は生まれたのではないか。

この時、自分事以外のことを実行する動機が著しく乏しくなることは想像に難くありません。それは「誰かの自分事」であり、もう少し言えば「当人の無責任の結果として手つかずになっている、誰かの自分事」だからです。こうなるともう「誰かのために行動する」ことはできなくなります。「サボった奴の尻ぬぐいなんてなんでしなくちゃならないんだ」というわけ。「誰かを助ける」という行為が理解できなくなるのです。この歪みを「自分事」という言葉は歪んだままに解決しようとしている。そんな風に思います。

しかし、これで上手くいくでしょうか。結局のところ「自分事」という言葉は「自分事/他人事」の二元論では解決できない問題を「実はそれもお前の自分事だから、お前がやらなくちゃいけないんだ」と言っているだけではないでしょうか。

「私たち」と正に私たちが言う時、そこにいるのは「私」と「他人」ではないはずです。言うまでもなかったはずのこのことが、この現代においては揺らいでいる。それどころか、「私」と「他人」以外にこの世界にはいないのだと、それこそ言うまでもないとすら「自分事」という言葉は言わんとしているように見える。それが私の感じる違和感です。そんなことはないはずだと思うのは、時代遅れなのでしょうか?

誰かのためだからこそ、力を振り絞ることができる。他人事だからこそ、否が応にも身が引き締まる。2人称になりうる他者は、もう私たちの傍らにいなくなってしまったのでしょうか? もしそうだとすれば、私たちは結局のところ、ただ一人一人が「自分事」の世界で生きていくしかない。「私たち」は幻想だということになるのでしょう。

この記事を書いた人
ふじの

教材開発室長。文学博士。哲学研究者。

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